THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.13

Date : 2016.04.11 / Author:吉川 工

記憶は正直ではない。
私の持っている記憶は、私の感情によって左右される。
プライドや理性といったものによって、
引き出される記憶も選別される。
引き出された記憶の発し方により、現在は形成されていく。
記憶というものは情報である。
私が体験したもの、見聞きしたもの、そういったものが
記憶としてストックされる。
そして、そのストックされるものも、
その時の感情によって選別される。

私が最近読んだある記事に、
人工知能とアイデンティティに関する事が書いてあった。
人工知能にアイデンティティを持たせる、
つまり「一人の人間を作り出すには、情報があれば可能である。」
というものだ。
私という人間、アイデンティティを作り出すには、
私という人間の身体データ
(心拍数、体温、発汗量とそれらの変化、環境や状況の影響)と
私が収集する情報を合わせる事で、
情動、思考の特性、行動様態を導き出せば良いという事である。
そのようにして作られた私は、人間としての私というより、
人工物、アンドロイドとしての私である。
アンドロイドの私は、私がどのような場所に出かけ、
どのような現象に影響されるかといったデータを
豊富に所有している為、流れる街中の音から、
一編の詩が閃く私を再現する。
私であればこのような現象に対して、このような閃きを覚え、
このような表現をするであろうという、予測的行動を行う
私のアンドロイドの創作は、本当に創作であると言えるのだろうか?

創作というのは生命活動の中でも創意工夫を行い、
日々を充実させようとする行為であると思う。
では、身体データから予測される、反復する一定の行為に対し
飽きるという感情を作り、独自の行動を取る私のアンドロイドは
創意工夫をしているのか?
データによって予測されたものは、自発的オリジナルなものとは
思えないのだが、私というものも、私というアンドロイドと同じ、
私というものが収集してきたデータの集合体なのだ。
創作というものには、心、精神というものが重要であると思う。
心があり、感情があるから、何かを変えようと思うし、
何かを生み出そうと思うのだ。
アンドロイドの行為が創作であるか?と考えるには、
心というものについて考えなければならない。
心というものが脳によって生み出されるのなら、
それはデータの集合体だ。
感情というものも、身体、体調の状態、環境によって左右されるし、
それによって引き出される記憶というデータにより、人格も変化する。
技術が発達すれば、アンドロイドでも、環境によって影響される
肉体を作る事ができるだろう。
環境によって影響される体、記憶という
データの集合体によって作られた私に、心は生まれるのだろうか?
心とは一体何なのだろうか?
この問いに明確な答えをもたらしたものはない。
心というものを説明する事ができるのは哲学だけだと思う。
心とは私が思う事であるが、それは考える事とは違うのか?
私が過去に考えた、心というものは「心があると信じる」事であったが、
この、信じるという事自体が心である為、
話はメビウスの輪に入ってしまう。
何故、心はあるのだろうか?
体内に心という器官はない。
脳の中に自ら発する器官はない。
私は誰なのか?どういう人物か?という問いには
私のいる環境が答えてくれるが、
私という心は一体何なのか?という問いに答えるものはない。
私は誰なのか?という事よりも、私は誰なのか?と思うものは何なのか?
という事である。
引き続きこの事について考えたい。
これを書いている者、読んでくれている者、このそれぞれに
確かに存在しているものについて考えよう。

私達は確実に人間である。

                                                      

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