THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.16

Date : 2016.05.24 / Author:吉川 工

記憶の系譜、それはその当人が経験してきた事である。
私は自身の過ちにより、幾度となく、
制限された生活を送っている。
そんな限られた娯楽の中に読書がある。
外界や情報から遮断され、感覚が鋭敏になっている状態で
触れる言葉には強い力を感じる。
私は抗う事のできない環境によって、
更に言葉に魅かれるようになる。
私は痛みを生み、悲しみを作り出す。

どんなに技術や能力があろうとも、
人を失望させる私は無能だ。
この文章は、いわば自己弁論とも言える。
私が言葉に関わるのは運命なのかも知れない。
このように私が自分の事を話すのには二つの意味がある。
一つは自身を掘り下げる事によって、自らを創生する事。
もう一つは私というフィルターを通して、
貴方に貴方という私、つまり自分を想ってほしいからである。
何故なら、これは公開されるものだからだ。
貴方なくしての私は空虚である。
私にとって、私とは私であるが、貴方にとって私とは貴方となる。
私が私であるという事の森羅万象は、
一歩私の外を出ると、正体不明となり、
相互理解がされない限り、小さな小石のようなものでしかない。
これを私は虚意志と呼ぶ。

現在と過去という記憶をたどる事によって、
自分が何を選択してきたかが見えてくる。
自分は他人ではない。
他人というものは媒介や媒体であり、
本体(私としての)ではないという事を忘れてはならない。
自分の選択してきた事は、本当に自分が求めていたものだったのか。
本質的に求めているもの、つまり真理等、
理解できるものではないかも知れないが、
その瞬間、理性を超える衝動がなければ、
その欲求はやがて自分の中に空洞を生む。
それはドーナツの穴のように意味を生む為の無ではない。
もしも、選択してきたものが、パラサイト、パラノイアしていても、
それを肯定、血肉としているのならば、
それはドーナツの穴のように自身を作り出す無となる。

さて、記憶とはそれ、すなわち時間の概念である。
時間とは空間と運動のなすものであり、
それは創作において、切っても切れないものである。
時間を無視しようとする事も、時間を生み出す事も、
逆行する事も、全ては時間に関係する事となる。
何かの行為を続けるという事も、時間の存在ありきの概念だ。
しかし、行為に集中するというエネルギーを生み出す事において、
時間というものは意識されないに限る。
何故なら時間とは本来ないものだからだ。
時間と意識には密接な関係がある。
意識とはつまり個という認識、アイデンティティであり、
それは記憶によって形成される。
そのように形成された私という意識こそが、
何かを創り続けるのだと思う。

創作とは、私自身を創り出すものではないだろうか。
私自身によって、私自身を創り出すという事は、
そもそもの私という原点を持ちえないものに起こりえない行為だ。
私というアイデンティティと記憶が関連すると考えるのはその為だ。
「命の結果」という「作品」に対しての
「生命の活動」という「創作」と、
「生命活動」の中で何かを創り出そうという結果を求める
「創作」は明らかに違う。
創作とアイデンティティの関連を示す事柄に、
創作、アートには心理療養に効果があるというのがある。
それは何かを創る事で精神を安定させ、知的活動を行い、
何かを生み出す事によってこれを生み出した者、
つまり、自分、私を創り出すからではないだろうか。
創作というのは人間において、とても重要な事であると思う。
流転、パラドクスについては次回考えようと思う。

                                                      

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