THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.18

Date : 2016.06.20 / Author:吉川 工

冬のよく晴れた日の朝に想う事は、小さい頃の記憶である。
小さい頃というのは小学校2〜4年生の頃。
その頃の私は人生の中で一番孤独であった。
学校の中で話ができるのは一人だけで、
後のものは無視をするか、小バカにするかだけ。
それは同学年のみではなく、
上の学年、下の学年の中にもいた。
家族は母と兄。
母は仕事が忙しいながらも、一生懸命にかまってくれてはいたが、
それでも多くの時間は仕事にとられてしまう。
やはり多くの時間は一人になってしまう。

孤独な者達が共通して行う事、それは夢想である。
ショーペンハウアーの言葉に
「精神の優れた者は孤独を選ぶ。それは人の本来具有するものが
大きければ大きいほど、外部から必要とするものは
少なくてすむからである」というものがある。
ここで重要な事は、外的要因からもたらされる孤独と、
内的要因により選択する孤独の違いである。
同じ孤独という言葉を使ってはいるが、後者の孤独は孤高であり、
ショーペンハウアーの言う精神の優れた者が選ぶ孤独とは、
この孤高の事を指す。
それでは孤独者と、孤高なる者の精神活動には、
どのような違いがあるのだろうか?
孤独者も、孤高なる者も、肉体的世界よりも、
精神的世界を生きようとするという事には両者とも変わりはない。
だが、この精神的世界の構造体系が全く違うのだ。

まず、外的要因からのみでもたらされる、
いわゆる孤独者は、充足する事のできない欲求にとらわれ、
それを満たす為に妄想を行う。
妄想を仏教では「正しくない考え」の事を指す。
ここでは何をもって正しくないか、正しいかという事には言及しないが、
妄想によって作られた精神的世界の構造は病んでおり、
妄想を行えば行うほど精神は不健康になる。
これではショーペンハウアーの言う精神の優れた者にはあてはまらない。
では、孤高なる者が行う精神活動とはどのようなものであるか?
内的要因、つまり、自らの考えに基づき、外的なものよりも、
精神が本来具有しているものを求めているという事は、
いわゆる煩悩と呼ばれる欲望にとらわれていないという事である。
物欲、肉欲、独占欲と離れるという事は、
世俗から抜けようとする事であるので、当然、一人になろうとする。
つまりショーペンハウアーの言う孤独とは精神由来のものであると言える。
私は、この精神由来のものによる孤独によって行われる活動は、
全て芸術とつながって行くのではないかと思う。

話を始まりに戻すと、私は小さい頃、夢想を行っていた。
この夢想が妄想なのか、創造的想像なのかは、
当時私が非常階段でしきりに行っていた夢想の話で判断してもらいたい。
私は当時、宇宙を想う事で孤独な創造主になろうとしていた。
宇宙空間を描き、その中から未知の生物を造型していた。
例えば、オランウータンに翼をつけたり、
魚に像のような鼻をつけたり、既知の生物をバラバラにし、
再構築していた。
私自身、これは妄想、つまり、正しくない考えではないと思っている。
私の場合は外的要因によってもたらされた孤独ではあったが、
その時に触れていた書物が、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」や
恐竜や宇宙の図鑑であった為、精神活動が妄想ではなく、
空想へと向いていたのだろう。
しかし、それでも外的要因による孤独である為に、
憤りにも似た欲求不満をかかえていた。
このような精神状態がもたらすものは常に妄想である。
私はこの時、生き物を殺すという妄想を行ってもいた。
それは、未知の生物を生み出す為に、
既知の生物をバラバラにする事が関係していたのかも知れない。
もしも私の精神構造が空想ではなく、妄想であったとしたら、
やがてはそれを実行していたかも知れない。
だが私の精神構造は空想であり、私の求めていたのは
殺す事よりも生み出す事、肉や内蔵の型状であった。
そして、頭の宇宙空間の中で星雲なんかと合成させていたのである。

創作には自分が選択した環境が大きく作用する。
もしも貴方が、精神の具有しているものを求め、
孤独を選んでいるのなら、必然的に芸術に触れる事になるだろう。

                                                      

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