THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.24

Date : 2016.12.14 / Author:吉川 工

人間は動物のように条件反射による行動ではなく、
自らの意思によって選択する事ができる。
それによって運命が変わるかどうかは分からない。
何故、そう思うのかと言うと、運命というものは
人間が選択するという事も当然包括しているからだ。

人間は自殺する事ができる。
今すぐに自分の意志選択による判断で命を絶つ事ができる。
そう思った時、実際に行動を起こせば、自分の未来は死であり、
行動を起こさなければ生は続いていく。
今こうして自分の生が続いているというのは
自分が死を選択していないからだ。
自分は生こそが自分の運命だと思っている。
それは、今の自分には死ぬ理由がなく
(もしかしたら、死ぬというものは明確な理由のない時に程、
心の中を通り抜けて行くものなのかも知れない)
それどころか「これがしたい」「これをしなければならない」
という願望、責任、それを後押しする、
自分に対する怒りにも似た熱意がある。
生きたい、生きなければならない理由が沢山あり
(理由とは真理という世界の情景にあてはめる
額縁のようなものなのかもしれない)
死にたいと思ってしまうような心の疲れもない。
そんな自分が意に反して死という選択をしたら、
それは自らの意思決定により運命を変えた事になるのではないか。
しかし、運命とはもっと大きなもので
「そのような意思選択、決定など、
しようはずもないであろう事をしてしまう」
という事も、導きというか描いていると思っている。

ある日、僕はこんな事を考えてました。
これは前回書いた創作の根元にある、
人間だけが行う意思選択について、引き続き考えていた事です。
考えていた、、、という事は今、現在の僕の思考は
次のトピックへと移っているのですが、
頭の中に思考の残滓があり、これを無視する事は、
自分に対する裏切りとなる罪悪感が生まれてしまう為、
こうして書いています。
雑考という言葉はフランスの思想家、
ジョルジュ・バタイユの本から拝借したものです。
あくまで、僕が読んだ本は翻訳されたものなので、
雑考という言葉はバタイユ本人の言葉というよりも、
翻訳者の言葉になってしまうと思いますが、
雑考という言葉にあたる表現をバタイユがしていたのは事実だと思います。
この雑考という言葉が使われたバタイユの著書では、
正にバタイユの雑考がそのまま本となっていました。
ありとあらゆるトピックが書かれており、
時に、それは途中で終わってしまったり、
読み進めていく内に、突然続きがあったりしていました。

僕は「創作」に的をしぼって、
後は自由に雑考しようと思い、これを書いています。
理由は、恐れや、抗えない閃きや、焦燥感といった、
これまた雑多な思いからです。
寄り道や回り道をしながら、色んな景色を見て、
ある場所へ辿り着こうという思いで、
それは明確な使命感によるものではありません。
この雑多な思いというものが僕の創作にとても似ているのです。

創作には様々な形があると思います。
綿密に準備されたものから、衝動のまま作られたものまで。
だが、どんなものであろうと、最初の一手というのは、
突き動かされた衝動であると思います。
後は、その人の特性によって、
どのようなスタイルがとられるのかでしかありません。
どんなに自由にしようと思っていても、
自由にしようという思いに捕われていれば、それは自由とは言えません。
それとは逆に、ある何かの観念や思考に捕われてしまっている事を認め、
そのまま素直に行う事は、ある意味自由と言えるのではないでしょうか。
命の方向に絶対的な運命があるとすれば、
そこに真の自由はないのでしょうか。
生まれた衝動も、それらによって行われる創作という意思決定も、
全てが運命によるものであったとしても、
僕達が作品に感動する事には変わりません。
この感動というものでさえも運命に決定づけられていたとしても、
僕達は宇宙の無限の造型に心を奪われます。
自由というものは、案外そういうものなのかも知れません。



                                                      

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