創作への雑考 pt.1
Date : 2015.07.07 / Author:吉川 工
何かを作ろうと思う時はどういう時か考えてみる。
私の場合、一日が何事もなく過ぎるといった日が連続すると、
フト「これでは私が生きた意味が残らない」という
不安にかられ、何かを残そうという焦燥感が生まれてしまい、
何かを作ろうとする。
そして、焦燥感から何かを作ろうとするといった日を重ねていくと、
やがて私は「いつでも作る事ができるのだから焦る必要はない」と
怠惰になってくる。
だがそんな状態でも必ずオファーや催促によって
何かを作ろうと空間に対峙するのである。
もう一つ、日々の中で突然閃く事がある。
それは文章だったり、メロディーだったり、
映像だったり、リズムだったりする。
閃きが生じると、私という個人はあらがう事ができず、
何かを作ろうとしてしまう。
例えばここで閃きを閃きのまま自然に消滅させる為、
創作をせずに、成立させないようにしたとする。
そうすると私の中には何かを殺してしまったような罪悪感が生まれ、
吐き気すらもよおしてしまう。
何故私にこのような事が起こるのか考えると、
それは幼少期の頃にさかのぼる。
これはあくまで私個人の体験なのだが、
私はある理由で軽蔑され登校拒否をしていたという過去を持つ。
朝登校するフリをして非常階段に行き、宇宙の図鑑と恐竜の図鑑を広げ、
空想の世界にひたるという逃避行をしていた。
想像力というものは強力なもので、
非常階段にいるという現実(映像と観念の両方において)が
宇宙空間からジュラ紀、白亜紀という世界になり、
生きるという痛みが喜びに変わるのである。
この時私は、非常階段の窓から差し込む陽光を見て、
このイマジネーションが金という生活の力になれば、
私は一生生きていくのに困る事はないだろうと考えたのである。
この時の記憶が私というパーソナルの根幹となり、何かを作る、
生み出すという事が私という者の生きる意味となった。
よって私は何も作らぬ、生み出さぬという日々を重ねると
生きる意味を喪失してしまい怖しくなるのである。
人間とは意味のないものに恐怖を抱くものであると考える。
私はこの人間が抱える潜在的な恐怖心が
科学や哲学というものを生み出し、
この世の全てのものに名称をつけたものと考えている。
何も無い空間に対し人は無という名を付け、
何も無いという概念であるゼロを考えだした。
人が何かを作ろうとする思念の根源に、この意味を付けるという行為が
深く関係しているように思う。
人が仕事をするのも、記念日を作り、生まれた赤子に名前を付けるのも、
全て何かを作ろうとする行為であると考える。
つまり人間とは元来から何かを作ろうとする性質を持つ生き物で
あるのではないか?
日々という中に喜びや笑いを求めようとする事も、
思い出という作品を作ろうとする行為ではないか。