THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.5

Date : 2015.09.13 / Author:吉川 工

時空を超える程の作品というものは
どのようにして作られるのだろうか?
現代にまで残っている作品というのは、当然、昔のものである。
それは現代からみて過去のものしか残り得ないという
単純な理由だけではないように思う。
技術というものは進化しているのに、
過去の作品を超えるものはないように思う。
それは何故か?

どれだけ技術が進化しても、それは感性とは違う。
感性というものは感じる力である。
創作というものは感じるという事がとても重要なのではないか?
命の営みが美しいのはそれだけ強く生を感じているからであろう。
私は創作というものには生命活動も含まれると思うが、
何も感じる事もなく、ただ時を消化しているだけのような生き方は
作品にはなり得ないと思う。
人間以外の生き物は全て命に正直であり、
全精力を使い、命を生かしている。
その行為全てが美しく、生命という作品になりえるのである。

文明というものが発達する前の過去では、
現代よりも感じる事が強かったのである。
死が近くにあり、生きるという事も簡単なものではない。
だが不思議なもので生が過酷であれば作品というものを
作る事はできない。
だがその代わり、命そのものが作品にはなりえる。
逆に現代のように便利化が進めば命は不感症になり、
作品とは言えないと思う。

感じる事がなくなった時、命は虚無となる。
この感じるというのは快楽ではない。
痛み、苦しみ、喜び、さみしさ、愛しさといった
様々な何かを感じるという事だ。
現代には神がいない。神とは大自然である。
人工物というものは規則的でどこか虚しい。
どんなに大きくても、輝いていても、
それは感性を強く揺さぶるものではない。
空を見上げればそこに宇宙があった過去、
感覚は鋭く、打ち震えていたであろう。
もちろん空気や水というものも関係があると思う。
感覚というのは芸術的な感覚に限られたものではない。
五感の全てである。
私は第六感を信じる。
第六感というものは五感の全てを活用する事で生まれるものだと思う。
この五感というものは数ではない。
有している感覚の全てを使う事である。
障がい者がすぐれた感性を持つのは失った感覚を補う為に
残りの感覚をフル活用するからだと思う。

芸術家だけではなく、何かの感覚を使う人というのは、
多くが芸術的作品に対する趣味を持っているのである。
作品というものに触れる必要も、関係する必要もないと思うが、
そうではない。
何もない生というのは虚しい。
何も感じず、何も思わないような人生を誰が望むであろうか。
希望でも絶望でも、何でも良い。
恵まれていても恵まれていなくても、何でも良い。
自然の中にいても、都市の中にいても、どんな状況でも、
生きている今を全部感じる事が大事なのだ。

感じない事は強い事でも何でもない。
本当に強い者というのは感じる事から逃げない事だ。
私達は感じる事から逃げられないようにする為に、それを記録する。
私達の記録がなくなった時は、感じるという事が弱くなった時であろう。
記録というものは残るものであり、振り返る事ができる。
その時の自分が残ってしまうのである。
現代の多くの作品がどこかさみしいのは
感じたものではなく、考えたものだったり、
彩っただけのものであるからだ。

感じるという事はとても辛いものであり、喜ばしいものでもある。
だが痛みの方が多い。
何故なら現実というものの認識こそが痛覚だからである。
それでも命というものが命らしくあるためには
感じなければならない。
我々は生きているのだから。

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