創作への雑考 pt.6
Date : 2016.01.15 / Author:吉川 工
創作という行為にいたる原因の一つとして、閃きというものがある。
閃きというものは、何かの作品に触れている時に触発される事もあれば、
突然生まれる事もある。
だが、人間の器官は受容体しかないらしく、
突然生まれたように感じるものも、
外的な何かに触発されて生じているという事になる。
つまりは連想なわけである。
当然、日々このような感覚に関する事を思考していなければ
連想も発動しない。
何かの職業に従事している者は、日々作業に関する事を思考している為、
自然と日常の中から職業に関連するものを連想するであろう。
閃きというのもトレーニングという事になる。
芸術というものは生まれ持ったセンスのように感じられるが、
センスというものも全て日々の鍛錬からなるものなのだ。
センスのある人間というのは、常にそれにかかわる
何かを思考している為である。
では、センスというものを鍛える為にはどのような思考から
始めれば良いか考えてみよう。
とっかかりは当然、自分が良いと思うものを真似する事だろう。
自分が魅かれるものという事は、自分の中に蓄積されている
何かにかかわるものなので、個人の特性による反応である。
しかし、そういった個性によるものの他に流行というものがある。
流行しているものというのは多数の好感を得ている為、
全体性の中で生きている人間にとっては、当然興味を魅かれる対象となる。
だがしかし、流行しているというだけの理由で取り入れてしまうのは、
個性を殺す事にもなりえる。
大切なのはそういったものも、あくまで情報の一つとしてとらえる事だ。
そして何よりも、できるだけ探求していく事である。
どこまで行くかというのは人それぞれであるが、
私はその対象に飽きるまで続ける事だと思う。
それだけ探求したものというのは、必ず自分になじみ、
パーソナルなものへと変換されるからである。
優れた技術者というのはいくつもの技を持っているものである。
探求の対象も複数に広げる事で自分の引き出しを増やす事につながる。
取り入れた複数の情報の中には必ず自分独自の偏りが見えてくる。
大事なのは数ではなく、この偏りを見つけ出す事だ。
偏りとは方向であり、特性である。
この独自の偏りが感じられないものは、
まるで何もないかのような虚しさをおぼえる。
咀嚼というのは一定ではない。
個人の嚙み締める強度、その回数、唾液の分泌量、体温、歯の形状等、
様々な条件がある。
情報を探求し、偏りを見つけるというのはこういう事ではないだろうか?
だが、それだけでは固執となり、道を間違ってしまう危険性もある。
そこで大切なのが情報の数だ。
一定の方向だけの情報ではいけない。
多角的に収集する事で偏りは刷新される。
創作というものは特別な行為ではない。
一神教的な考えによって芸術、技術者というものが
特別視されてしまったが、全ては日々の鍛錬である。
自分が優れた技術者になりたいのであれば、ひたすら鍛錬をする事だ。
そうすれば感覚、技術というものは進化していく。
多角というものを時間軸として考えれば現在、過去、未来であり、
方角として考えれば東西南北であり、性や年で考えれば老若男女である。
これは、つまるところ宇宙だ。
この世に虚はあれど無は発生しにくい。
つまり全ての物事は対象の範囲に入る。
この無限とも言える宇宙への旅を始める一歩となるものが、
自分の好きなものの真似をする事と、好きなものについて
知識を深めるという事だ。
このように考えると、人間の生というものは
とてもスバらしいものである。
感覚の宇宙と向き合う事で、自分というものはより、
自分らしくなる。
このように考えると、創作という行為で作られるものは、
自分なのかも知れない。