創作への雑考 pt.7
Date : 2016.01.25 / Author:吉川 工
感情と創作は関係があるだろうか?
このような事を考える理由は、何かを作ろうというアイデアはあるのに、
悲しかったり、何かに悩んで気がのらないという事があるからだ。
感情の状態に関係なく、アイデアが浮かんでいるという事は、
閃きと精神状態は関係ないという事か?
創作しよう、またはしたいというものも一種の欲であるから、
体調等の身体の状態は関係あるだろう。
体調が悪く、空腹ではあるが食欲がわかないというのに似ている。
結局の所どのような状態であっても、
やるか、やらないのかはその欲の強さという事である。
私の場合は以前に話した通り、何かを作らないというのは
存在の否定につながるものなので、閃きがあるのにもかかわらず
何もしないというのは、とても怖ろしい事なのだ。
作るという事は記録するという事である。
記録する事によってその時の私が残る。
これは録画でも録音でも残す事のできない頭の中の映像を記録する。
私の場合のイメージとは頭の中に映像を思い浮かべる事である。
風景や何かしらの描写が映る事もあれば、文字が映る事もある。
頭の奥でフワッと映像がよぎる。
この何かしらの発生に集中している事でつかめるようになってきたが、
これもまたトレーニングである。
そして発生した素材を形として成立させるのも技術の鍛錬を必要とする。
どうせなら色んなものを作れるようになりたい。
頭の中に見えるのはいつも映像であるが、
それを曲にするのか、文章にするのか、
詩にするのか、絵にするのかというのは自然に使い分けられている。
例えば歌詞を書いている時に風景のようなものが見えてきて、
その映像を文字にする時もある。
その使い分け方は、自分が何をしたいのかという
欲求によって振り分けられる。
きっと、絵が描きたいと思っていると、
デッサンに関する事をずっと考えるので、
浮かんだものを絵にするのだろう。
例えば前述した文字にした風景を、
絵が描きたいと思っている時に浮かんだら絵にするのだろう。
この浮かんでくる、またはよぎるという閃きの現象は本当に不思議だ。
分かりやすく言うと「こうやって食べたら美味しいだろう」と思えば料理、
「あそこへ遊びに行こう」と思えばレジャーというものである。
つまり思いつきなのだ。
この思いつきというものも、環境等のセッティングによって
止まってしまう場合も、助長される場合もある。
私の場合、一定の制約を決めるとやりやすくなる。
だが、この制約というのも難しいもので、
あまり決めすぎると逆に何もできなくなってしまう。
この制約の決め方を例えるなら
「何かして遊びたい」何をするか
「海に行きたい」では海で遊べる事を考えよう。
といった事や「何か食べたい」「洋食が良い」「肉が食べたい」
では洋食の肉料理を考えよう。という感じである。
一見、創作というものは自由な方が良いように思われるが、
実はスポーツ等と同じで、一定のルールがあった方が
より楽しめるものなのだ。
この、今書いているエッセイの場合は「創作にかかわる事」と
「21行の便箋2枚におさめる」という制約をもうけている。
こうする事で、どう話を展開させるか?
どのように話をまとめるか?という考えが整理しやすく、
文章が浮かびやすい。
その他、曲にしても小節数や拍数、
絵でいえばキャンパスの大きさというように何かしらの制約がある。
私はこの制約を地球でしか生きる事のできない生命と重ねる。
宇宙という無限のフィールドでは生命は謳歌する事ができないが、
重力と酸素という制約のある地球の中では、
命は大いに謳歌できるものなのだ。
このように考えると自由というものが見えてくる。
自由を楽しむ為にはどのような制約をもうけるか
という事なのかも知れない。
この制約は命、つまり作品にとって重要なものなのであろう。