THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.9

Date : 2016.02.21 / Author:吉川 工

偉大な芸術家の中にも、
いわゆる精神異常者というのはみられる。
有名な人ではゴッホであろう。
ゴッホが見ていた世界は現代のコンピューターを使った、
ある画像処理と極似しているらしい。
通常ではないという事は見えてる世界が違うという事である。
この感じている世界とは肉眼ではない感覚である。
自分の感覚が感じる世界である。
ゴッホは夜のカフェに人間の狂気を感じていた。
写真を撮れば大体が同じように写る。
(この場合、写真家が撮る作品としての写真は該当しない)
だが描く事で世界は多様に変化する。
それは感じ方が違うからだ。

創作としてあるべきなのは、見たままではなく
感じたままに描く事だ。
だが残念な事に、現在の教育はそのように描く事は
間違いとされてしまう。
小さい頃、高層ビルを見て巨大ロボットに見えると
画用紙に手と足の生えたビルのロボを描いた友人がおこられていたり、
空を黒にした事でおこられているのを見かけた事がある。
これは当然、絵だけに限られた事ではない。
私は好きな女性に対する美しさを内蔵に例えた事がある。
できる事ならば食虫植物の花束をあげたいと思う。
世界が歪んで見える者はそのように描けばよい。

私は自分の事を通常とは思わないが、
少し変わっている位で偉大な異常者ではない。
異常者になりたくて溺れるが、
モラルが壊れるだけで何も逸脱はしない。
芸術家としての異常者は紳士的である事が好ましい。
気高い狂人。
美学のない狂人は凡人である。
故に私は凡人である。
狂人になろうとして創作する事は気違いではなく勘違いである。
10人の人間がいれば10通りの感じ方があり、そこに普通はない。
重要なのは壊れる事ではなく、感じるエネルギーを増幅させる事、
それをできる限り再現する事である。
私は偶発を好むものである。
いたらない表現力が新たな道を見出す事もあるものだ。
私はラップをしているのだが、即興をしている時、
言おうとしていた単語が前後逆になってしまう事がある。
これは技術のいたらなさであるが、あえてこれを何度も連呼し、
元々言おうとしていた言葉と交互に言ったりする事で
サイコアクティブ(精神作用)な表現になる時がある。
大切なのはフットワークではないだろうか?
頭の部分に性器をつけ、腕の所に足をつけるみたいに
コラージュするというのはとてもオモシロイ手法だと思う。

私は個人的に、どれだけ歪められるか、
ありえない新次元とも言えるような角度からせめてくる
作品というのが好みだが、見えてるものをフィルターを通さずに
そのまま忠実に再現された作品もスゴいと思う。
そのような作品は写真を超えている。
写真には写らない感触が写し出されているように感じる。
緻密に描かれた作品というのも、ある意味では通常ではないものだと思う。
通常では考えられないような念のこめられたものが私の考える異常である。
社会は平均を求める為、突出したものは摘み取られてしまう。
それでも信念を曲げずに、それに打ち込む人は、
評価されない限り異常者としてみなされる。
あのゴッホも生前は評価される事なく、精神異常者として生を終えている。
通常ではないもの、通常を超えるものというのは
すぐれた感性というよりも、重要なのは集中力ではないだろうか?
通常を超える異常者は異常な程集中力を持っている。
私は凡人であるので集中力がない。
集中力によって生み出されたものには念がこもり通常を超える。
集中力というのもトレーニングだと思うが、
私は中々集中力が身に付かない。
雑念のないまっすぐな考えを持つ異常者、凡人の私は
雑念まみれである。
雑念が大衆的なあらわれとして、
量販店が好まれるのもそこにあると思う。

(※割愛、削除箇所あり)

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