THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.10

Date : 2016.03.11 / Author:吉川 工

芸術における何かを作るという行為は唯物的か、唯心的か?
何かを作ろうとするのは精神的なものによる。
精神が敏感であればあるほど感動が多く、
この気持ちを何かに残したいと思う。

創作の根元とも言える記録を行うのは、
この強い気持ちによるものである。
では、何故それを物にしようとするのか?
唯心的であるのなら、物にしようとするのを避けるはずである。
これは、あくまで言い伝えであるが、ブッダやイエスは
自身の教えを文書といった形に残す事を拒んだと言う。
これは、物にする事で偶像化し、唯物的になってしまうからであろう。
では一度、唯物的な考えとはどういったものなのか考えてみよう。
唯物というのは物質こそが真の存在であり、
全ては物質から始まり、精神というのは
その副産物であるとする考えだ。
西洋を中心とする近代文明は、正にこの考えであり
唯物は力、保有力が全てとされ、
先住民のような物質の発展による自然破壊を恐れる民族は蹂躙された。
唯物論は様々な物を生み出し、人の暮らしを便利にし、
様々な謎を解き、自然、命を殺してきた。
現代社会において、唯心的と言えるものはほとんどないと思う。
唯物というものを考えると、芸術というものは唯心的であると思うが、
では何故、物として残そうとするのだろうか?
この何かを使って表現、記録しようとする行為は
近代だけにみられるものではなく、西洋中心以前の文明にも
みられるものである。
単純に考えれば唯心と唯物のバランスであり、どちらかというと
二元論ではないのであろうが、このテーマは興味深いので
もう少し掘り下げてみようと思う。

芸術というものは常に自由や解放を根本とする為、
基本は唯心的であると考えられる。
過去にも芸術革命は何度も起きている。
だが、芸術は束縛や差別、搾取、思想の統制といった
暴力に対するものである。
芸術は一個の観念や考え方ではなく、あるものが生み出した
ネガティブなものを否定するのである。
ダダイズムやシュルレアリスムは理性を否定したが、
芸術は否定していない。
芸術革命は理性的文明の生み出した戦争、圧政を否定したのであり、
理性的文明の生み出した芸術の発展は否定していない。
芸術は否定もするし肯定もする。
ある対象に対して、許容もするし糾弾もするのである。
もしも唯心がエスカレートし、物質の全てを否定し、
近代的な生活をする人々を殺して行くような事があった場合、
芸術は唯心というものを否定するだろう。

芸術というものは常にあるべき姿を求めている。
創作と芸術は延長線上にあるものである為、創作という結果を
他人に公表するのであれば、それは芸術となりえる為の
何かを必要とする。
私は、芸術とは受け手によるものであると考える。
だが、言葉にする事で枠を作り、本来とは違うものに
なってしまうかも知れないが、恐れずに言うのであれば、
芸術とは解放であると思う。
何かにとらわれた意識、思考、形態、様式
(これらは本来の意図ではなく、無意味となったものに限る)を
解放し、自由にするものである。
その為には作者自身が己を解き放たなければならない。
創作するにあたって大事なのは、解放というものを
意識してやるのではなく、己の意識、限界を超えようとする
一心のみで行う事であろう。
その為には抑圧が必要である。
よって芸術は、必要とする抑圧を否定しない。
脳に対しては頭蓋骨、心に対しては肉体、欲望に対しては法律。
しかし、自由に対する束縛、条令というものには真っ向から
否定、対立する。
あるイスラム教徒の言葉が思い出される。
「ジハード(聖戦)は祈りを信じないから起こるのではない。
私から祈りを奪おうとした時に起こるのだ」

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