創作への雑考 pt.11
Date : 2016.03.22 / Author:吉川 工
何かを作ろうとする時、終わりを想定してしまう自分がいる。
これは集中力と関係があるように思う。
基本的に私の場合は明確な主題を持って作るのではなく、
一点の閃きを拡張させていくような手法をとっているので
思いつきが明滅する。
よって、順序だてて進行していくようには中々ならない。
生まれたものを吐き出す、生じさせる事が
一番強い衝動でもあるので、基本が、一筆書きに近いような
形になってしまう。
私はとても迷いやすく、すぐ別の何かに気を取られてしまう。
別の何かというものが、一本の道から見える何かで
あれば良いのだが、てんでバラバラである為、
自分では雑念としか思えない。
雑念が生まれない方法というのが、一気に駆け抜ける事であるので、
私はゴールをすぐに想定してしまうのだろう。
スタート地点において、ゴールが見えない状態で
全力疾走できるとは思えない。
私の場合は、疾走が生み出す野性が好きなのである。
私が33に魅せられたのもそこにある。
衝動を衝動として残す事はとても重要であり、
芸術として必要な技術である。
33は、まず衝動を記録する。
その後、その記録を編集、精製する作業を行う。
その他にも録ったものをループさせたり、切り貼りするという
実験を繰り返し、面白い形になったものを使う場合もある。
どのような作業においても終点というものは必ずある。
それは完成ではないのかも知れないが、
何かしらのピリオドは打たれるものだ。
私は全力疾走しようとするので終点を想定してしまうが、
創作の欲求には「終わりのないもの」というのがある。
これは一見パラドクスである。
言ってしまえば「一日を終える為に眠りにはつくが
それは人生を終わらせる事ではない」という事なのであろうが、
終点に至ろうとするが、完成、完了させたいわけではないというのは、
とても興味深いのでもう少し考えてみたいと思う。
完成させないというのは昔からある風習である。
有名な建築物でも柱の模様がわざと逆さまになっていたり、
動物に目が入れられていなかったり、色が入っていなかったりと、
作業は終わるのだが、わざと未完成にさせた作品は数多くある。
また、ミロのヴィーナスのように外的な理由により欠損した事で、
より美的なものとして評価されるようなものもある。
私はメビウスの輪とドーナツの穴にとても魅かれている。
メビウスの輪は成立してはいるが始点と終点が
限りなくループしている。
ドーナツの穴というのは穴という無、空を作るという事によって、
ドーナツというものを成立させる。
これはミロのヴィーナスに似ていて、
なくす事で生み出すというものだ。
終わりのないものというのは、人間にとって
永遠の夢なのかも知れない。
しかし、美というものは終わるという条件の元に
生まれるものである。
永遠に続くもの、変わらぬものに美は宿らないだろう。
作品と創作の間に横たわる、
終わらせようとする行為は美を生む為であり、
終わらせないようにする行為は夢想を具現化させる為では
ないだろうか?
芸術とは二律背反である。
人間というものはとても不思議な生き物である。
幸せや喜びがずっと続けば良いと思うが、
それが永遠となると怖れを抱く。
不老不死といった永遠に続く生をテーマにした作品は多々あるが、
どの作品も、作中の人物は永遠に変化しない生に絶望する。
人間はパラドクスであっても叶えようとする生き物だ。
作品を作り、作業を終えるのは、終わるという必然性をもたらせ、
意図的に完成させないのは永遠の夢を叶える為ではないか?
この地において法則も空間も秩序も欲望も時間も超越するのは
「 」である。