THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.12

Date : 2016.04.01 / Author:吉川 工

芸術というものは主観である。
何故こう言いきるかというと、人間の現像の要因となる記憶は
決して、実在を記録したものとは限らないからである。
私は幻覚や幻聴を体験していた。
その時の事をいくら思い出しても幻としか言いえない事も、
実際に起きた事としか考えられないからである。

私はつい最近まで客観というものが理解できなかった。
客観とは不特定多数による主観の集合体だと考えていた為、
結局の所は主観でしかないと思っていた。
なので客観というものの考え方が、自分が第三者として考えた時に
どのような印象を受けるかであった為、
結果、自分の思う事でしかなかった。
私が創作ではなく芸術と言っている事はには理由がある。
創作とは、ある意味行い、営みにあてはまると考える為、
そこには客観性を追求した創作もありえるからである。
だが、これが芸術となると客観性を表現していたとしても、
客観性というテーマによるメッセージであったり、
主観的感性による表現となる為、芸術と創作を分けて使っている。

客観的とは概念である。
概念とは不特定多数による主観の集合体の平均値である。
マーケティングはこの概念を追求する事にある。
だが、芸術とはいかにこの概念をくつがえすかというのが
重要である。
(中にはあえて概念にのっとり主観を象徴するというやり方もある)
だが、一つ忘れてはならない事がある。
人間というものは単体で成立するのではなく、
アイデンティティは相互作用によって形成される。
つまり、主観というものも客観の一部分であるという事である。
結局の所、両者の違いは少数なのか多数なのかという違いなのである。
このように考えると主張というものは虚しくなってしまうが、
主張というものは客観に向けて放たれるのである為、
それが完全に理解不能であれば主張というものは意味をなくす。
こじ開ける、破壊するというのは、通用する法則に
のっとっていなければならない。
鉄の扉をこじ開ける為にウイルスをまいても何の意味もない。
主観と客観というのは共生関係にある。
平均値によって導き出された客観にいたるまでの情報には、
少数的認識もあるのである。
ようはどこを強く打ち出すのかという事である。
客観を知り得ない主観では扇動する事はできない。
芸術においても基本が構築されない内はオリジナルは生み出されない。
この基本とは、オリジナルとなるものに対する
基本であるのでマニュアルとは違う。
この基本とは、軸となる主体であり、それは反復行為によって形成される。
つまり練習するのである。
Cを表現する為には、AからB、BからCへと行く。
というマニュアルがあったとする。
ある者はそれに対し、自分はAから直接Cへ行った方が良いと
思ったとする。
その者はAからCを表現しようとするが、最初はうまく行かない。
しかし、それを何度も繰り返す事によって独自の手法を見つけ、
その者独特のCの表現方法が確立されるのである。
(またはAからB、BからCというマニュアルを知らず、
ひたすらAからCという表現法を続ける事で
独自のスタイルが確立されるというケースもあるだろう)
シュルレアリスムやダダイズムに見られる
無意識によって生み出そうとする手法や、意識的なものを
破壊する為に行うカットアップやコラージュというものにも、
意識、意図を超越するという明確な主観がある。

客観を求めようとする主観や、主観というものを賛美する客観、、、
意識とはとても不思議である。
宇宙のチリの一部である私。
環境や相互作用によって形成される個。
〝有る〟というものは〝無い〟という事で〝有る〟。
〝無い〟というものは〝有る〟という事で〝無い〟。

これは私の主観である。

(※割愛、削除箇所あり)

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