THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.14

Date : 2016.04.26 / Author:吉川 工

私は一体誰なのか?
私は生まれた時から私であったのか?
私が赤子の時、私という認識は持っていなかったと思う。
私はいつから私であり、私とは何をもってして
私なのであろうか?

物心というものがある。
それは記憶と関係していて、自我の芽生えでもある。
どのような環境であろうと、私という
個の認識は形成されるものであろう。
しかし、この私という認識は環境によっては
非常に希薄なものになってしまう。
世界の中には、人をロボットのように扱う為に、
私という認識を持たせないよう、
徹底的に人格を否定された子供がいる。
そのような子達は、欲もなく、痛みや一切の感情も
持たないという。
これはロボット、つまり、ある目的の為に
合理的に働くものを作る為のものである。
この事から考えれば、私というものは
非合理的なものであるという事だ。
人格を否定する事で私が希薄になるのならば、
肯定する事で私を濃くする事ができるのではないか?
肯定のみの環境で作られた私は、傲慢であり、
欲のみに生きる私であろう。
そのような私も、ある意味では、痛みを思いやる事や、
感情が希薄であると言える。

私というものは環境や物事を選択する。
その選択は外的要因や、内的な要因の影響を受け、
変化するものである。
選択、肯定、否定によって育まれる私は
様々な生命活動を行う。
環境にそぐわない行為は、当然、制限を受ける。
創作というものは、このようにして作られていく私によって
行われるものであるが、このように考えると、
環境と肉体とデータがあれば、私というものは
作る事ができるのではないだろうか?
私、アイデンティティというものを壊す事ができるのならば、
当然、作る事もできるであろう。
私というものを作る事ができるのならば、
人造人間、アンドロイドにも創作は可能であるという事である。
しかし、現在の技術では、私の複製はできても、
更新はできないのではないかと思う。
だが、それも蓄積されたデータと、新たな環境によって得られる
データによって、私の表現は進化していくのではないかと思う。
私というものがデータの集合体と考えた時、
人はそれを空虚に思うだろうか?
私が誰かを思う事も何かに強く魅かれる事も、
データがさせる事であり、反応なのであると考えたら、
心に対する考え方が変わってしまうだろうか?
心というものは特定の器官ではないし、目で確認できる
ものではないが、確かに存在しているものである為、
それはこの世の何かであるわけである。
力の伝達も、光の媒介も、全てがこの世の何かであるのだから、
思い、心も当然この世の何かであるわけだ。
科学はやがて、心というものを証明しえるのだろうか?
その時、人間の創作はどうなっているのであろうか?
アンドロイドであろうとも、元となるデータが人間であるのだから、
生み出されるものは人間と無関係なものではないだろう。
創作というものに、私というものが深く関わっており、
その私というものは人工する事ができるのであれば、
地球以外の文明によって作られた、データも共有する事が可能であり、
そのようにして作られていく私が作り出す作品とは、
どれだけ人知を超える事ができるのか?
人が人知を超え、それが認知され、人以外の生命体との交流により
進化していく表現は、仕え人にとどまらないものである。
そう考えると芸術は人だけのものではない。

私は、この先の未来、更新されていく。
しかし、更新されていく私であったとしても、元となる母体が、
特定される私であるのならば、どんなものも私と無関係ではない。
私というものは、どれだけ複製されようが、人工されようが、
新たにアップロードされようが、私という因果からは切り離せない。
私は私以外にはなれない。

                                                      

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