創作への雑考 pt.15
Date : 2016.05.12 / Author:吉川 工
DNAという遺伝子記号は進化の系譜をたどっている。
私は母胎の中で小さな細胞から
魚類、は虫類と進化をたどり、形状を変え、
やがてヒトの子となる。
それと同じように、私の頭の中にある記憶も、
幼少の頃の最初の記憶から現在の私へとつながっている。
現在というものは流れる砂時計の通過点であり、
留まる事なく、過去へと落ち行く砂である。
この文章を思いついた時、書いた時、読んでいる時、
その時というものは一瞬たりとも静止する事はない。
現在とは流動性であり、現在という瞬間に対する認識、
つまり思った瞬間以外存在しえない。
追想、追憶とは全て過去の事である。
だが、過去の事を思っている瞬間は現在である。
創作というものにおいて、記憶と時間というものは
重要な要素である。
私というものが感じる事は、私というものが感じてきた事に関わり、
私というものが感じてきた事は、私というものが置かれてきた環境が
深く影響している。
私というものがこのような文章を書くのは、
私というものが強く影響を受けたものと、
私というものが行ってきた事が原因である。
私というものの表現媒体は文章、つまり、言語である。
これは、ある一例として述べるものであるが、
私が強く言葉に魅かれる理由は、
幼少の頃、母に言われた言葉が、私というものの人格形成に
強い影響を及ぼしている事に気付いた事に始まり、
幼少期より、不思議と国語の授業が得意であり、
読書が好きであった事、そして、ある人物の言霊に触れた事にある。
幼少の頃、私は、親戚の家に飾られてあったつぼに恐怖を覚えた。
そのつぼには相田みつをの言葉が書かれており、
それを読んだ私は得体の知れない何かを感じ、近よる事ができなかった。
それから私は言葉の持つ力を信じるようになった。
ある哲学者の言葉に
「宇宙を表現する事ができるのは言葉だけである」というものがある。
言葉、そこには記憶が関係している。
私は人の記憶に宇宙を感じる。
知らない町の住人の営み、
つまり習慣というその人の記憶の集積による行動様式をみると、
ここは宇宙なのだと感じる。
宇宙というものは巨大な記憶の塊なのである。
そして記憶とは認知であり、その認知とは言葉で理解されている。
私が私という解読を行った認知という記憶を持てるのは、
私が言葉を持つからである。
記憶というものは営みを生み出す。
営みとは命の表現である。
記憶が言語化されていない場合、反射や反復といった
行動様式としての記憶はあるだろうが、その記憶を伝達する事は難しい。
伝えるという事は、それ、そのままが表現の一種であり、
口語による伝達、表現とは人間らしいものだ。
認知と記憶は密接な関係を持ち、そこに横たわる言語化という認識方法は
人間の生み出した英知である。
表現というものは何ものにも縛られるものではない為、
私がこのように考える事は表現という行為そのものに
必要なものではないのかも知れない。
だが、私というものが創作するという行為の
重要媒体が言語である為、私は言葉を使い思考する。
創作には記憶と時間が重要であるというのは、記憶や時間を否定したり、
逆行しようとする事も含まれる。
意図された反逆というものは、対象の存在なくしてはありえない。
記憶というものは認知である為、それは時間と同様、実在してはいないが、
確かに我々の元にあるものだ。
ここで私の言葉にパラドクスが生じたのは、
意味と無意味が流転した為である。
私というものの記憶の系譜と、流転、パラドクス、
時間に関しては引き続き考えていこう。