THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.19

Date : 2016.07.13 / Author:吉川 工

信じるという事は創作に対し、どのような影響を及ぼすのであろうか?
何かを創作するという作業を行う時、
果たして自分にそれを行うだけの衝動と、
その衝動を具現化する事のできる技術と、
それを完遂できるだけの体力があるのかという
一抹の不安が生まれる。
そしてそれは創作を行う前だけではなく、
その行動の途中にも何度も生まれ、私を止めようと作用する。
その時、私にできる事は二つ。
不安にのまれ諦めるか、不安を振り払い進み続けるか。
この、後者に至る為に必要とされるのが冒頭で述べた、
信じるという精神活動である。
しかし、私は己自身を信じる事のできない者に、
継続的な創作活動はできない等とは思わない。
なぜなら信じようとするという事には、 信じる事ができないという心理が働いているからだ。
疑いと不安の中で進み続ける者も、
疑いから己の無能さを証明する為に
作り続ける者もいるのかも知れない。
それとも、ただ生じた閃きという衝動に
したがっているだけなのかも知れない。
私の場合は、自分を信じるように働きかけ、
己を鼓舞し創作を続けるタイプだ。
このような表現を用いると、なんだかひたむきで
美しい姿を連想してしまうが、全くそうではない。

私が私を信じようとする事は、ある意味で、
自分をだます行為でもある。
(これはあくまでも私が私自身に対して思う事であり、
私以外の人にもあてはまるものであるとは思っていない)
何故、私自身を信じようとする事がだます事になるのかというと、
私自身の創作しているものが、私にとって本当に
有用性のあるものであるか、
それが他の作品や人に何かしらの影響を及ぼすものであるかどうかは
結果論でしかないからである。
さらにこの結果というものが一体、いつおとずれるのかも分からない。
もしかしたら、私の死後おとずれるのかも知れない。
そうであったとしても、明確な結果がおとずれるのならば良いが、
まるで、吹き抜ける風のように忘れ去られてしまうものかも知れない。
私が私を信じ創り続けてきたものが、私自身にも、
それ以外の何かに対しても、一切の影響を及ぼすものではないとしたら、
私は自分をだました事になる。
それをも「結果ではない、やる事に意義がある」
とでも言うのであろうか。
私はただ意味もなく、やる事、やり続ける事には
何の意義もないと思う。
己自身の人生における、一にぎりの答えもなくやる事によって、
苦しく、虚しく、辛いだけなら、そんなものは美学ではない。
お前はここではない、諦めろと私は言いたい、言ってもらいたい。

信じようとするよりも、切実なる動きというものは、
己の無力を証明する為に創り続ける者にあるのかも知れない。
このように書いていくと、私は信じるという精神活動を
否定的な考えとしているように思われてくるがそうではない。
私が求めている、望んでる事は唯一つ、創り続けるという事。
その為に必要な事であれば、私は肯定する。
生みの苦しみとはあまりにも辛く、私はひどくおびえてしまう。
それでも閃きは止まる事なく私をせき立てるのだ。
それはまるで、生み出す事で
過去の自分を殺せと言ってるようにさえ思える。
この焦燥感にも似た心の働きにより私は創作をし、
その創作を続ける為、信じるように働きかける。
本当は信じたいなどこれっぽっちも思っていないのかも知れない。
沢山の裏切りを重ね、よせられる思いを踏みにじってきた私に、
信じるというものは、とても希薄で脆弱なものとなってしまった。
これはとても悲しい事なのかも知れないが、
私自身は信じるという事よりも、抗う事のできない衝動を求めている為、
悲壮感はない。

いつの世も、敬虔な信者は、大衆の目には滑稽にうつる。
それは信仰心というものが、近代文明によって蹂躙されている事を示す。
私は追い求めているが、修道者のように崇高なものではなく、
信仰を持っているわけでもない。
信じたくて信じているのではなく、信じるという選択しかないから
信じているのである。
そうでなければ自分で自分を殺すという、
自殺に等しい結果に至ってしまうだろう。
人間という者の心理構造における継続的な精神活動において、
信じるというシステムは必要であるというのが、
私の経験から至った現段階の結論だ。
これは、もしかしたら人間という者の原理的な話といえるのではないか?

                                                      

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