THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 pt.20

Date : 2016.07.25 / Author:吉川 工

生まれた年から一年離れると、生まれる前へ一年近づく。
始まりは終わりへと向かい、
終わりをむかえた始まりは流転する。
俺は生まれてきたという事以外何も知らないが、
不思議と、生きていく中で「そういう事なんだ」と思う。
それは根拠はないが、確信に近い。
朝の頭と夜の尻尾がつながっているように、
「そういう事なんだ」と何の抵抗もなく溜飲する事ができる。
俺は窓の隙間から見える空が暗くなった時、
体をふるわせながら布団に入る。
断片的な夢のロードムーヴィを見て、空が白み、
窓の隙間に紺色の線が入った時、体をふるわせながら布団から出る。
この繰り返される歯車のような毎日が、
俺に始まりと終わりの流転を諭しているように思う。
夜は死で、朝は誕生。
布団は胎内で、震える体が命の脈動。
そう思いながら俺は一歩ずつ死へと向かっている。

何かを創り出すという意図的な行為に出会う前、
俺は生きる意味が分からなかった。
ただ流れていく時間の中、ただ消費されていく命の中、
自分の存在意義を見出せずにいた。
あの時は喜びも悲しみも、怒りも恐怖も全ては一過性のもので、
吹き抜ける風のようでしかなかった。
記憶は全て朧げで、本当にそこに居たのかどうかさえ
よく分からずにいる。
ただ、その時を共に過ごした家族だけが、それを証明している。
母から届いた手紙に、
俺が小さい頃たんぽぽの花束をプレゼントしてくれたと書いてあった。
もちろん、そんな事は覚えていない。
だが、母がガスライティングのような記憶のねつ造を行っているわけがなく、
その出来事はただ俺が覚えていないだけで、過去確かに起きた事なのだ。
自分の記憶に残っていなくても、誰かを喜ばせていた事が正直嬉しかった。
しかし、それでは記憶はまるで水のようだ。
無色透明、無味無臭で触れる事も、見る事もできない。
ただのどを通った時に感じる温度だけで、
それは胃袋の中に入ったとたん、感覚による認知においては消滅してしまう。
臆病な俺はそれでは自分を確認する事ができない。
これを、人は自信が無いと言うのだろう。

何かを創るという事の必要性は、
この宇宙において存在している事なのだろうか?
これは永遠のテーマでもあると思う。
このテーマの元に何かを創るという事は、
いささか矛盾しているような気もするが、
何かを創るという行為でしか分かり得ないものがある為、
その行為を続けていくしかない。
当然、俺の人生の中で何も創らなかった期間というのは存在している。
それは、たまたま閃きという創作衝動が起こらなかったからではなく、
意図として創作的な事から距離を置いていた。
その時、俺の日々や心の中にあったものは、
目の前にある社会や、公共からベルトコンベア式に流されてくるものだけだった。
仕事、金、流行、右から左に流れていく超高速の情報達。
しだいに、与えられるだけの情報という箱庭の中で、
俺は俺というアイデンティティを喪失し、亡霊のようになっていった。
その時の状態はネットによく似ている。
アクセスする事で、多種多様な情報がモニターに映し出されるが、
実体はどこにもない。
行き場を失くした俺はリリックを書き、ヴァースを作った。
もう、そうするしかなかった。
(ナルシスティックに感じられてしまうが、
アイデンティティを取り戻す為に、本当にそれしかなかった)

何かを創るという行為が俺の血肉となり、循環しだしたあの日から、
俺は絶望をしなくなった。
(それは何かを創るという行為を失った時、同時に希望も失う。)
絶望自体がなくなったとか、希望しか見出だす事がないというのではなく、
絶望に迷う事がなくなったというのが正しいかも知れない。
絶望した時、そこに創作があれば、俺はその絶望をマテリアルに創作をする。
そうする事で、俺を迷わせる絶望の正体が明らかになり、絶望は絶望ではなくなる。
やがてマテリアルとなった絶望がユーモアへと昇華した時、俺は強化される。
フランスの思想家、ジョルジュ・バタイユは
トラウマをユーモアにした時、人はトラウマを完全に克服すると言っている。
バタイユは笑いとは非知なるものによって生み出される、
人間の理知の結晶であると考えている。
俺の考える笑いとはエンターテイメントの事を指す。
経験や痛みをエンターテイメントするというのは様々なカルチャーにみられる。
俺はその中でも特にヒップホップがそうだと思う。
2パックというラッパーはこんな事を言っている。
2パックはサグライフという思想を打ち出した。
今日、サグライフとは、悪い者達による反社会的な生き方とされるが、
それは言葉としては合っていても解釈が違う。
2パックの言うサグライフは、権力や差別という社会による苦しみに
戦うという意味での反社会的な生き方である。
やがて2パックはサグライフ基金というものを作り、
集めた募金で本当に民衆が望んでいるアーティストを集めた
イベントを開くという構想に着手する。
反社会というのは己の欲望や自分勝手な思想の為に法を犯すのではなく、
明らかにおかしいと思われる制度に対し、反対する事を言う。
つまりレジスタンスの事だ。
前回話したディスとこのサグライフ。
この二つのヒップホップにおける哲学は、
苦しみや絶望をエンターテイメントするという要素が深く関わっている。
そして俺は今、絶望の中で己の状況を
エンターテイメントに
昇華させようとしている。
自分の境遇、過ちをリリックにし、自分の目に見える世界、人々を観察し、
本を読み、人と話し、それを文章にする。
中では基本的に大きな声を出したり歌を歌っては行けない為、
布団の中でラップをし、作業の中で体を刻み、ボディランゲージでライミングする。
良き指導者の元、レター、スローアップ、TAGを教えてもらい日々を過ごしている。

創作が人生において必要不可欠な事なのかどうかは未だに答えが出ない。
だが、俺の人生において言える事は、創作は必ず魂を導いてくれるという事だ。
創作によって迷う事も確かにある。
それでもやり続ける事で必ず道はひらけてくる。
生命活動における必要不可欠な事は衣・食・住だ。
そこに創作はない。
創作は最低限の生命活動を続ける為に、必要な条件が確保されたうえで生じる。
余裕がなければ行う事ができない。
(この必要最低ラインは人によって様々だ。)
創作とは満たされている者による戯言なのかも知れない。
そうだったとしても、実際にゲトーやスラムや収容者に
小さな安息という灯りをともすのは、創作による精神の充足だ。
ホロコーストに収容された、あるユダヤ人はこのように語っている。
「どのような暴力であっても、私という精神自体を拘束する事はできない。
体の全てが使えなくても、私は想像の中で空を飛び、家族と抱き合う事ができる。
この時点で私は絶対的に私なのだ。」
俺はこれこそ、人間という精神活動における真理なのだと思う。
俺という一人の人間が、社会という集団の中で有意義に生きる為には、
まず何より、自分という確固たるアイデンティティを確立させる必要がある。
人は完全な孤独の中では生きて行けない。
それは人類学者の多くが語っている。
人間という字は人の間と書くものであり、それは人間というもの自体が
集団生活する生物である事を表している。
人とは精神の生き物であり、人が人である為には
生命活動と精神活動が同一であるという事だ。
もう一度言うが、創作が人生において
必要不可欠なのかどうかという答えは出ていない。
だが、俺が人生の中で培ってきた経験や情報から言える事は、
人が人である為には心が必要であり、人という心が人間であるには
集団の中で生きる事が必要であり、
人間が自分であり続ける為にはイマジネーションが必要であるという事。
そして、そのイマジネーションには、絶望も苦しみも全てをエンターテイメントし、
怖れを導き救うという事だ。

ここまで書いて、俺はある事に気付いた。
俺にとって創作とは、聖書や教典やコーランのような存在になっている。
俺は創作を続ける事で、俺の人生という個人的なものから
普遍的なユニヴァーサルなものへとつながっていける。
その為にも俺は滑稽な程に俺であろうと思う。
俺は俺という人生を生き、輪郭を濃くするように、
一日、一年という一歩を踏みしめ生き続ける事で、
やがて来る、終わりという普遍的なぼんやりとしたものへと近付いていく。

我々の処世術の本領は、生存するために我々の存在を放棄するところにある。
(ゲーテ、格言と反省)


(※割愛、削除箇所あり)
                                                      

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