創作への雑考 pt.23
Date : 2016.11.23 / Author:吉川 工
思考が動き続けている内は、創作を止める事はないのだろうか。
思考する事と創作という行為は、同一のものではないが、
創作とは思考された何かから始まるものであると僕は考えます。
思考をせぬ者が何かを創作するという事はないでしょうから。
「思考と創作」について思ったのは、冒頭の問題提起によるものです。
思考が生きている限り止まらないものであるのならば、
創作も止まらないのだろうか?
そんな事を考えていました。
「思考と創作は全く関係のないものであり、
そのような事を考える事自体が無意味である」
と言う人はいないと思います。
では、思考と創作の関係性をより確かなものとする為に、
思考なき創作について考えてみたいと思います。
思考というのは、人間のような知的動物特有のものであり、
それは精神活動でもあります。
精神活動とは知能レベルの高い動物の行うもので、
それは生命活動と等しく、
その生物の命を活動させるのに必要不可欠なものです。
それは、ストレスや感情といった外的なものによって生じる反応ではない、
内的なものです。
僕は人間であり、人間以外の知的動物との交信がありませんので、
この地球上で精神を持ち得ているのは人間だけではないかと思っています。
(クジラやイルカのような知能指数の高い動物が精神活動をしているのでは
ないか?という考察もありますが、それはまた別の機会に)
それを表すものが創作行為、芸術作品であると考えているのです。
人間以外の動物が芸術作品を作っているのを僕は知りません。
動物が色彩を判別し、絵を描くといった事はありますが、
それはあくまでも訓練によって身に付いたものであり、
動物自ら自発的に判別し、技術を高めたものではありません。
もしかしたら、僕や人類が知らないだけで、
自らの精神活動により芸術する、人間以外の動物が
この世界、地球のどこかにいるのかも知れませんが、
今現在、僕はそれを知りません。
ですので、精神とは人間だけが持つ、高い知能指数によって
生まれたものだと考えるのです。
ですが、それは精神が崇高なものと捉えているものではありません。
精神とはとてもやっかいで矛盾したものです。
思考するという事は自らの内的なものによって判別、選択するものです。
「夜と霧」の作者であるV・E・フランクルは
「人間とは何か?という事をずっと考察してきた末に分かった事は、
人間とは自分の考えの元に選択する事のできる生物だ」と言っています。
僕もその通りだと思います。
思考するという事は、何かを選択する事とも言えるのではないでしょうか。
この選択の対象は物理的法則や感情を超えたものです。
動物のように「自己の能力を超えて環境を変化させる事はない」
というようなものではありません。
人間の思考は時間と空間という
宇宙の絶対的な法則でさえも超越しようとします。
そんな人間の思考が芸術を行うという事に、僕はとても納得させられます。
なぜなら、この世の中で芸術のみが、
ありとあらゆる法則を超越し、また包括するからです。
それは科学をも凌駕します。
係員に飼育され、一枚の紙に絵を描いたゾウがいます。
そのゾウは自らの意識によって、目の前の花を
一枚の紙の中におさめたいと思ったのでしょうか?
花という限りある命を、紙という無限ではないが、
花の寿命をはるかに超える命へと宿らせたいと思ったのか?
僕はそうではないと思います。
それは動物の条件反射を利用したものでしかないと思うのです。
僕が人間以外の動物が芸術を行わないと言うのは、
このように考えるからです。
一輪の花を一枚の紙に描くという
人間からすれば何でもない行為は、花の美しさに感動し、
その美を残したいという思いによってなされるものです。
そんな思いはやがて写真を生み出しました。
人間が思考しなければ、衝動のみに生きる動物となります。
人間の不全なる体は過度な歪んだ欲求を生み、それは自身を滅ぼします。
だからこそ人間には理性というブレーキが必要であり、
衝動と理性の間で思考という精神を生み出したのだと思うのです。
思考と創作にはそのような人間所以の関係があると僕は思考します。