創作への雑考 pt.31
Date : 2017.05.26 / Author:吉川 工
生活の中で、何かを思いつくという事があると思います。
思いつき、つまり閃きには、ほとばしるエネルギー量と言いましょうか、
力の強弱があり、力が強ければ強い程それは強力な衝動となり、
抗う事のできない力で自身を動かします。
閃きとは一体何なのでしょうか?
脳には自発的に信号を出す器官が無いそうです。
僕達が思考するきっかけとなるものは、
外部からの情報のみなのだそうです。
脳の中から自発的に意志を発する私を探そうとすると、
玉ねぎの皮を剥いて行くように、最後には何も残らなくなると言います。
という事は、思考とは外部から受けた何らかの影響によって生じる
連鎖反応と言えるのではないでしょうか?
何となく、海水に衝撃を与えると発光する夜光虫を連想します。
この“連想”こそが閃きを生み出すのです。
外部から“1”という情報が入り、脳の中で“2”という連想をする。
“2”は3、4、5と連想ゲームのように連なっていく。
そして、連なっていく連想が何かに結びつく、
或いは辿り着いた時、閃きを生むのではないでしょうか?
連なっていく情報が結びつく、或いは辿り着く“何か”。
この“何か”とは一体何なのでしょうか?
イメージの連想の着地点、つまり閃きについて考えるにあたって、
イメージの連想を辿ってみましょう。
頭の中で浮かび上がったイメージが、
記憶としてストックされている他のイメージと結びつき、
新たなイメージとなる。
また、イメージの中から何かを抜き取り、
最初のイメージとは違うイメージにする。
このイメージの足し算、引き算を行なっていくと、
ある時、頭の中でこれだ!という閃きが生まれるのです。
この、これだ!という閃きに変わるまでの経緯の中に、
脳が引き起こすコラージュ的誤作動があると僕は思いました。
この誤作動が、閃きと非常に密接な関係にあると考えています。
例えば人の腕がヘビに見えてしまい、勘違いした脳が、
腕からヘビの生えた人の姿をイメージする。
木の葉が人の顔に見えて、
木に無数の顔面がぶら下がっているように見える等々。
このようなイメージを抱いた時、頭の中でこれだ!が生まれるのです。
この通常では起きない、脳の誤認が起こすコラージュ的誤作動。
これに美の本質が存在している為、
閃きを生み出すのではないかと思うのです。
僕が美を感じるのは形状です。
(この形状には音や色も含まれます。)
では、人はどのような形状に美を感じるのか考えてみましょう。
人は生態学的に矛盾した不完全な生き物だと言います。
体に対して大きな脳、毛のない皮膚にか細い手足、
行動するのも、出産するのにも適していない2足歩行、
人の肉体は自然の中で完全というには程遠い形状をしています。
人という不完全な形状、これが人の感じる美の根本だと僕は考えます。
(ここで一つ断っておきますが、
僕がまるでこの世の美の全てを知り得ているように使っている美とは、
あくまで僕が感じる美を基準として考えている美です。)
人間の肉体的不完全さは完全を求める過度な欲求となります。
つまり、僕の考える人間の美とは異常なまでの
完全さと不完全さにあるのです。
完全と不完全という極と極を行き交う美は痙攣的です。
痙攣的な美の震動はドリルのように深奥の本質を目指します。
この痙攣的な美の震動によるドリルは、
やがて神経性の追求となり、狂気を生むと僕は考えています。
この狂気は単純に狂っているというようなものではありません。
追求するが故に逸脱された狂気です。
美は狂気をはらんでいます。
イメージの連想が狂気に至った時、または少しでもその片鱗に触れた時、
閃きがスパークするのではないでしょうか。