THIRTY THREE RECORD

創作への雑考 後書き

Date : 2017.10.16 / Author:吉川 工

アート性を高める必要があると僕は考えます。
僕達創作者は創作という行為を続ける先に技術や体力の向上だけではなく、
もっと深い、深淵な何かを高めていかなければならないと思います。
それがアート性ではないでしょうか。
アート性を高める必要性という意見に対しては賛否両論あると思います。

「そんな必要はない。重要なのはキープすることであり
哲学的に進み続けることではない」と考える人や、哲学的考察により
さらなる道がボンヤリと視覚的ではない感覚で見えてはいるが、
あえてそこへ進むことを選んでいないという人もいるでしょう。
ですが、やはり僕は本質的に創作というものは洗練されることによって
アート性を高め昇華されていくのが必然だと思うのです。

顕著意識による誘導という言葉の使い方を僕はするのですが、
原点に立ち返り考えると、意識的な操作をしなければ、
またそのような意識的なものを超えた創作、
つまり顕著意識による誘導をされていない作品は
必然的にアート性の高いものになるのではないでしょうか。

原点という表現を僕は使いましたが、
アート自体が創作行為という原初的な行為の進化によるものなので
創作の原点という意味ではありません。
創作行為がアートへと昇華される瞬間という意味での原点をさしています。
創作行為がアートへと昇華される瞬間とは何なのでしょうか。

アート性を高める必要性については
個人的見解による差異があると思うのですが、考察を続けること、
そしてそれを理解したうえで自分の進む道を決めることが
自立した意識にとって必要であり、アート性うんぬん以前に
自立した意識がなければアイデンティティは成り立ちません。

考察することは自己の意識にとって必要なことである、
という考えがこのような文章を書かせます。
これはあくまで僕個人の考えでありますが、
このような文章を書く、読む、そしてそれについて考えるということが
創作をさらなる高みへと推進させるのだと思います。
それは偉いとか、高級であるとかいうことではなく、
俯瞰できるようになるというのに近いのかも知れません。
ずっと同じ目線、それは視覚だけではなく精神的なものも含まれのですが、
それだけでは見えない世界が必ずあると思います。

発信する側だけではなく受け取る側においてもそれは同じで、
創作のアート性を高めるものは相互関係によって発生します。
それを言葉で形容するのは難しいのですが、
例えるならば同じ精神的な目線でしか考えられない者同士が
中々相互理解に至ることが出来ないといったように、
互いに成長していかなければ
この世界の作品の水準を上げることは出来ません。

アートというものは全作品において極論的に個人的なものなので、
全体的な水準を高める必要など無いのかも知れませんが、
アートの恩恵を受けている者としては
そのように考えるのは大事なのではないかなと思います。

アート性を高めるには発信する側、
それを受け取る側の自立した意識が必要なのですが、
それを阻もうとする働きがあります。
それは国家による、ある種のイデオロギーなのですが、
その一つに資本主義があります。

この現実世界、つまり僕達が生活をする社会は完全な資本主義社会であり、
資本力が正義となります。それは道徳的見地ではありません。
現在のような世界を作った、
力によって勝ち取ったのが資本力のある国です。
いかなる思想を持っていたとしても人間である以上、
顕著意識をもち社会的な立場を保持しながら生存し続けるには
共生関係が必要です。

社会を否定して自給自足の道を選んだとしても
大地にまで値札が付けられている現代では
完全なインデペンデントをすることなど出来ません。
社会を思想的に否定することは出来ても
物理的に拒絶することは死に繋がります。
よって、アート、またはそこに至る途上である作品の発信者も、
受ける者も資本主義社会の流れの影響を完全に避けることは出来ません。

全ての国家や政策がそうだとは思いませんが、
全体を統制するという意味においての運営をするには、
またそのような運営を円滑にするには自立した個の意識は
出来るだけ芽生えさせないようにする方が合理性が高い為、
この資本主義社会は必然的にアート性を
高めようとさせないような働きをします。
アート性について考えるにあたって
これは認識しておくべき重要な問題です。

僕達は人間である以上全体性から逃れることは出来ません。
人格に重大な欠陥がない限り意識は認識の共有を求めます。
そして共感に達した時に充足感が生まれます。

自立した個の意識を平均化させようとする社会の働きや、
認識の共有が共感に達した時に生まれる充足感の過多は
創作行為をアート性とは反する方向へ向かわせようとする作用があります。
これはある意味では人間であるが故のカルマと言えるかも知れません。
共感に達した時に生まれる充足感は一種の快楽です。
それを忘れてはいけないと自分自身に言い聞かせています。

どのような作品であろうとそれがこの現実に世界に
アウトプットされるということは、自己の中から発生するということです。
脳の中に自我となる信号を発する器官はないというのが
現在の科学的な見地ですので、
僕の表現は矛盾していることになるのですが、
それでも言葉では内部から発せられるものであると言わざるを得ません。

もしかしたら、ミクロがマクロを構成していように
内部と外部は輪のような繋がりをしているのかも知れませんが、
現段階の僕の考えでは、自己発生が外的影響によるものであったとしても
作品は内部からアウトプットされたものによる結果であると考えます。

作品は自己と向き合うことによって生まれるものです。

自己と向き合うということには禅問答のように終わりがありません。
ある本に、哲学とは考察し続けることである、
と書かれていたのですがそれと同じだと思います。

終わりの無い自己との対向による哲学的考察が
アート性を高めることに繋がると僕は考えます。

終わりがないということと答えがないということは違うので、
終わりなき哲学的考察には問いに対する答えがありますが、
それは終わりではないのです。
どれだけ外的な要因を切り離し自己の内部に降りて行けるかの深度によって
アート性は高められるのではないでしょうか。

アートというものが一体何なのか
という原点について考えるというアウトプットによって、
自己との対向による哲学的考察を続けるということが
アート性に繋がるというインプットへとループをするわけですが、
摂理とはそういうものなのでしょうか。



                                                      

← Back To Essay Top